東久邇宮家について

久邇宮家と東久邇宮家、および天皇家との姻戚関係

東久邇宮家家系図東久邇宮家の本家である久邇宮家は、盛厚王の祖父にあたる久邇宮朝彦親王が1875年(明治8年)起こした宮家で、朝彦親王は伏見宮家20代当主邦家親王の四男として誕生しました。

伏見宮家は、江戸時代後期の4大宮家(伏見、桂、有栖川、閑院)の中でも最も古く、その起源は南北朝時代の北朝第3代崇光天皇(すこうてんのう、1334-1398)の第一皇子栄仁親王(よしひとしんのう、1351-1416)にまでさかのぼります(*注1)。栄仁親王は持明院統の嫡流に当たりますが、皇位を継承することなく御領のひとつ伏見御領に移り、伏見殿と呼ばれるようになったとされています。

朝彦親王は当時の宮家のならわしにより8歳で出家、14歳の時には奈良一条院の院主となると同時に孝明天皇の父である仁孝天皇の養子となります。そのため、血縁は無いに等しいのですが、姻戚関係から言えば孝明天皇の兄、明治天皇の伯父に当たります。幕末の政治的動乱の時期、7歳上の朝彦親王は孝明天皇から厚い信頼を寄せられており、異例中の異例として孝明天皇の命で還俗し、最初中川宮と名乗のりました。そして、幕末期における諸藩、公家との利害の調整、江戸城の無血開城と開国、海外に開かれた皇室の創設に力を尽くされます。明治8年5月には、久邇宮と改称し、ここに久邇宮家が誕生し、東久邇宮家へと続いていくこととなります。


東久邇宮家家系図 *注1 弘化4年(1847)10月11日、奈良奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)は、当時興福寺の塔頭(たっちゅう)一乗員の門主であった朝彦親王(尊応入道親王:左写真)の次のような話を、「寧府紀事」に書き残しています。

わが実家は吉野の皇居の血筋なる故か、ことに盛んにして、当時は禁裏も後醍醐帝の御血筋、近衛も鷹司も皆、わが実家のもの共が継ぎたり。不思議なることよと御意也。

「吉野の皇居」とはすなわち南朝のことであり、「当時は禁裏も後醍醐帝の御血筋」は今(当時)の天皇は南朝系の天皇であることを意味します。どうやら朝彦親王は、定説と違いご自身を南朝の出自とご自覚されていた様子がみられます。なお、この「寧府紀事」の記述の解釈については諸説あるようです。


稔彦王と東久邇宮家の創設、盛厚王の誕生と皇籍離脱

 東久邇宮内閣集合写真 / 最前列に稔彦王

東久邇宮家は、久邇宮朝彦親王の第九王子である稔彦王(なるひこおう)によって創設された宮家で、明治天皇の第九皇女とのご結婚がその機となりました。

稔彦王はフランスに7年間ほど留学し、政治家や芸術家と親交を深めるなど国際的な視野を持つ一方、閉鎖的な宮家制度をあまり好まれなかったと言われています。

ポツダム宣言受諾後の3日後にあたる昭和20年8月17日(1945)、史上初の皇族総理大臣(第43代)となり、国内外に展開する現地日本師団の武装解除に皇族を勅使として派遣するなど、難しい終戦直後に内閣を組閣し、大きな事件もなく日本の終戦を導きました。

稔彦王の内閣総理大臣就任要請は戦前にもあり、それを固辞されたため、当時陸軍大臣であった東條英機が兼任で総理の座に就いた(1941年6月)と言われています。歴史にもしもは禁物ですが、歴史研究家の中には、稔彦王がこの時に総理に就任されていれば、その年12月の開戦は避けられたであろうと推測される方もいます。


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東久邇盛厚王:フィリピンで撮影されもの 

さて、昭和22年10月14日(1947)、GHQの皇室財産が国庫に帰属するとの指令をきっかけに、東久邇宮家も11宮家51名の一つとして皇籍を離脱することになります。稔彦王は平成2年(1990)に亡くなるまでの102年の生涯に4人の王子をもうけ、盛厚王(もりひろおう)は稔彦王の第一男子として大正6年5月6日(1917)に誕生しました。

東久邇盛厚王は、学習院、陸軍士官学校を経て、昭和14年(1939)には陸軍将校としてノモンハン事件等の戦場に着任しています。


 

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